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その6


核家族化から核分裂へ

〜 「核家族と戦後住宅民主主義」

●核分裂家族化!?

 戦前の家父長制の家族社会が崩壊し、親と子とを単位とする核家族が増加した。都市への人口の集中と次男三男の家族形態が核家族化に拍車をかけて、人口増加よりも世帯増加が急速に進んできた。実際、世帯全体に多家族が占める割合は急速に減少しており、住宅統計調査によると、5人以上の世帯の割合は昭和58年の24.3%が平成5年では19.3%と、10年間で5ポイントも下がってしまった。一方で単身や二人世帯の増加が著しい。単身と二人世帯では同じく昭和58年が27.5%であったものが平成5年では35.0%と飛躍的にのびている。

 一般的に世帯の変化を理解すると、戦後すぐには家父長制は崩壊しないが、しかし都市に職を求めて集中する世帯は核家族が基本となり、それは田舎に親を置いての次男三男の核家族化であった。その後、次第に日本の景気も良くなり、産業の拡大と共に大学進学率も高くなるにつれ長子の都市への移動も始まってくる。特に戦後のホワイトカラー信仰は長男といえども大都市の企業にとの思いが、集団就職や大学進学という名の下に世帯の分離に拍車をかけてきた。何時かは戻ってきてくれるとの思いを残しながら旅立たせた長男は、やがて企業と嫁の人となってしまい、決して親の元には戻らなかった。

 多少偏った解釈はあるにせよ、概ね戦後の核家族化の流れを概観したのだが、今はこうして都会に出た子世代がさらに分裂する時代になっている。団塊世代の子供が社会人となり始めたバブル経済後の社会状況は決して揚々とした時代ではなく、一人で生きることに目覚めたかのように見えた単身女性の増加も共生(結婚とは言いにくい)を考えるようになり、かといって子沢山になるわけではなく、少子化も限界にきている。

 リストラに遭っている親の財力にも限りが見え、たちまち独立を迫られる団塊ジュニアの世代は共存共栄の同棲や夫婦別姓のディンクス世帯が増えてくる。勿論、単身世帯も増加し、家族の単位をさらに小さくしている。

 団塊世代の子供の数は親の四分の三の比率で、子供が親よりも少ないのが特徴である。少子化が叫ばれてはいるが実態としては二十年前から始まっていたのだ。団塊世代は子が少ないので早くから子離れが始まり、子は子で親に頼れない人生設計を作るために就職や修学により独立した住宅を持ち、親はなんとか手に入れた住宅のローンを払いながら第二の人生を支える蓄えにと持ち家を持っている幸と借家住まいの不幸を感じつつ老いることになる。自らの財産を子に託す余裕すらなく、老後の未知数に更なる蓄えを考えているのが現状である。

 戦後の核家族化は、地方から大都市に人口が集中する形で核家族化が進んだのに対して、現在の核分裂は同一都市圏での世帯分離が主になっている。中には過疎地問題があるように農山村部から都市への移動は未だにあるが、その割合は都市内での世帯分離には及ばない。今では中核都市の殆どでインナー地区の空洞化が社会問題化してきており、高齢化の問題と重複した都市問題とし位置づけられている。これも子世代との世帯分離が原因であり、解決すべき課題である。

 高齢化先進国の北欧諸国では少子化は止まったものの非摘出子の急増が社会現象となっている。女性の社会進出が進み、育児への社会保障が充実した結果、夫婦関係を持たなくても子育てが可能になり経済的に生活が可能になっており、デンマークでは新生児の半数が父親が定まらない出生であるという。日本での現状は全体の6%程度であるが、これも年々増加の傾向を見せており、高齢化社会の到来と共に家族の核分裂への動きが速まるのではないかと考えている。子育て後の女性の社会進出をきっかけに、別居や熟年離婚も増加する兆しを見せており、ますます核分裂を引き起こす引き金が増えているようである。


●風が吹けば桶屋が儲かる(戦後民主主義が住宅の不均衡を作った)

 風が吹けば砂埃が舞い上がり、それが人の目に入ってめしい(盲人)をつくり、めしいが生活の糧に三味線(猫皮)を弾くので猫が少なくなり、ネズミが食われないので増えて桶をかじり、桶の需要が増えて桶屋が儲かる話である。結果には必ず原因があるという、非常に明確な話であるがその経路が複雑で、原因の自然現象と結果の社会現象がにわかに結びつかないのがこの諺の特徴であるが、結局物事には因果関係があるたとえである。

 途中の経過が複雑で有れば有るほど因果関係は見えなくなるが、戦後の世帯構成の変化もこれによく似ていて、ちゃんと考えないとその流れがよくわからないものだ。戦争が終われば戦地から亭主が戻り、それが一斉に子供を生んでベピーブームを作ってしまった。子供が多く出来ると、生活を支えるために残業も惜しまずに一生懸命に働き、工業先進国としての日本の経済力を高めてきた。しかし、産業優先社会では労働者の報酬は抑えられており、余暇のない生活から残したせめてもの財産として子供に高等教育を受けさせた。子供たちは教育を受ける為に大都市に集中している大学に進学し、大多数は地元に戻らずに産業の集中する大都市で就職した。だから当時の挨拶は出身地を聞くのが一般的になっていた程だ。今の二十代の若者に「どちらの出身ですか」と問えば、大概の場合、大都市近郊の市区の名前が飛び出す。つまり当時の大都市転入組の子息たちなのだ。

 大都市の人口は安定し、スプロール化しながら拡大してきた。多くの若者を集め、その家族を増やすことで大都市はさらに人口を集中させてきた。その結果、大都市に住む年代の住宅需要時期が逼迫して住宅地の地価の値上がりを生み、結果として持てるものと持たざるものを作りだした。やがて、バブル経済は破綻したものの経済は沈滞し、「住まいは甲斐性」の論理が、焦って買ってしまった住宅ローンを不動産の値下がりで買い換えもできない状況を作り出した。上昇した地価は次第に下がってはいるが、バブルの付けは個人にも重くのしかかっている。住まいという基本的なものを社会的に担保しなかった日本の政策の罪でもある。

(秋元孝夫)


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